4「2020年のアメリカ大統領選は遺恨試合になる」

 トランプ人気失速の背景にアメリカ史の封印された1ページが存在した

今回の大統領選でほとんど遊説もせず自宅にこもり切って、失言の機会を減らそうとしていバイデンが予想外に善戦している理由は、どうも「コロナショック」による株価暴落だけではなさそうだ。まず、主要な株価指数は8月から9月初めにかけて軒並み新高値を更新していた。実体経済の低迷とはかけ離れたパフォーマンスなので、時おり急落も挟んでの不安定な上昇だが、株価さえ堅調なら現職有利という昨今の風潮からすれば、トランプ有利に再逆転しても不思議ではないはずだ。

さらに、アメリカの基準では大都市の部類に入るミネアポリスばかりか、ケノーシャのような小さな町であれほど破壊活動が荒れ狂っても、やはりBLM派に同情的な雰囲気は変わっていない。これは基本的に民主党リベラル派べったりの大手メディアが情報操作をしているからとうだけで片付けられる問題ではない。そこでふり返って見ると、5月末には、ミネアポリスでの警察官によるジョージ・フロイド殺害事件ほど大きなニュースにはならなかったが、もうひとつの「事件」が起きていた。

35月にかけて選挙活動を自粛していたトランプ陣営は、5月下旬に「619日に全国遊説再開を記念して、オクラホマ州タルサ市の約2万人を収容できる会場で、大演説会開催する」と発表していた。日本ではあまり知られていないが、619日は、ジューンティーンスと呼ばれて、アメリカ黒人にとって奴隷制度からの解放記念日となっている。南北戦争も終幕に近い1865619日に、北軍のゴードン・グレインジャー将軍が、テキサス州ガルヴェストンで黒人解放を宣言した日だからだ。そして、黒人のあいだから「ジューンティーンスに自分の演説会をぶつけることで、トランプは黒人解放を記念する祝日から注意をそらそうとしているのか」という批判が出た。

そこでトランプ陣営は、この日に自分たちの選挙演説をぶつけるの遠慮して1日だけずらして620日に大集会を行うことにした。だが、結果的には100万を超える参加申し込みがあった中から抽選で選ばれた約2万人のうち実際に参加したのは6000名だけという低調な集会になった。民主党左派による呼びかけもあって、反トランプ陣営からの参加申し込みが殺到した結果、出席権を獲得した2万人のうち約7割が、始めから参加する気のないボイコット戦術での応募者だったわけだ。

ボイコット戦術がこれほど大勢の参加者を巻きこんだ背景には、今から99年前に当たる1921年にタルサ市郊外の黒人居住地区グリーンウッドで起きた、富裕黒人層の住宅に放火し、推計300名以上の犠牲者を出したアメリカ史上最大の人種テロ事件があった。1910年代後半から20年代初頭のオクラホマ州タルサ市は、石油ブームのまっただ中にあった。ガソリンエンジンの普及と石油需要の爆発的な拡大に関しては、T型フォードという世界初の大衆車の大量生産工程の確が最大の要因とされている。だが、第一次世界大戦で軍事用車両や航空機に搭載するエンジンへの需要が激増したことも見逃せない。そして、タルサ市ではこのブームに乗って黒人富裕層が激増したが、厳格な隔離政策が敷かれていたので、富裕な黒人層は黒人向け住宅地グリーンウッドに集中して住んでいた。

19215月末、タルサ市内の商業ビルの白人エレベータガールに黒人少年が腕につかまったか、足を踏んだかという接触があって、この少女が悲鳴を上げた。白人たちのあいだで、この黒人少年は白人少女をレイプしようとしたのだという噂が広まった。少年はリンチに遭うのを防ぐために刑務所に保護されたが、この少年を引きずり出そうとする白人集団と、武器を持ってでもそれを阻止しようとする黒人たちとのあいだににらみ合いがあり、そのまま膠着状態で夜を迎えた。

白人集団はこの黒人少年を引きずり出してリンチすることはあきらめた。だが、闇に紛れて黒人居住区であるグリーンウッドの各所に火をつけて回り、火災を逃れようとした黒人たちにも容赦なく棍棒などで殴りかかり、また、発砲もした。焼死した黒人、逃げだそうとしたところを殴り殺されたり、射殺されたりした黒人が続出した。大部分が黒焦げの死体で身元もわからないままだったが、身元の確認できた死者だけで38名、犠牲者総数は300名を超えると言われている。下にご紹介するのは、グリーンウッド大虐殺に関連した4写真だ。

 





出所:(左上) https://i.ytimg.com/vi/QIRzKhW8anQ/maxresdefault.jpg

(右上) http://40.media.tumblr.com/d17811b1a16357cefc3b7dfc4369ea82/tumblr_n0bwmdNWjG1rm4wgqo3_1280.jpg

(左下)ニューヨークタイムズ紙、2020619日付記事、(右下)http://rastafari.tv/wp-content/uploads/2016/02/The_Tulsa_riots_of_1921_Photo_provided.jpgより引用

 

上半分は、「黒いウォール街」と呼ばれるほど繁栄していたグリーンウッドの有力者たちがそろった記念撮影、そして、まだ白人世帯でも自動車はあまり普及していなかったこの時期に、沿道にずらっと自動車が並んだパレード風景だ。下半分は、噴煙が盛り上がっている延焼中の現場写真と、4000弱の家屋や建物が全半焼したと言われる暴動直後の建物の残骸だ。

この事件で最大の問題点は、事件直後からあたかも箝口令でも敷かれたように、この事件に関する報道がまったくと言っていいほど途絶えたことだ。さすがに「黒人の分在で、白人より豊かな暮らしをするから、天罰が当たったのだ」と考えたのは、ごく少数の、それこそクー・クラックス・クランKKKに共感するようなごりごりの人種差別主義者だけだろう。だが、白人大多数は、事件を徹底的に究明し、放火犯や殺人犯を摘発するよりは、自分たちの抱える恥部として隠すことを選んだ。現場から命からがら逃げ出した黒人たちも、この事件に言及するだけで、差別主義者の白人から「報復」されることを恐れて、口をつぐんだままだった。

その結果、1990年代末までの80年弱にわたって、「グリーンウッド人種暴動」はアメリカ史の中で封印された1ページとなっていた。たとえば歴史学研究会編『世界史年表 第二版』(2001年、岩波書店)1923南北アメリカの項(275ページ)には「オクラホマ州でKKKの活動が激化し、戒厳令施行」と書いてある。だが、おそらく編集者たちも、なぜこの時期にKKK全米各地からオクラホマ州結したのかはわからずに書いていたのだろう。今では、それがわかっている。グリーンウッド大虐殺について抗議の声を上げるかもしれない生意気な黒人たちを威圧するために勢揃いしていたのだ。

私が1970年代後半に留学していたジョンズホプキンズ大学歴史学部大学院の北米近現代史授業でも、この大事件への言及はまったくなかった。そもそもアメリカ近現代史の専門家でさえ、知っていた人がいなかったのだろう。この事件の記憶が再浮上したきっかけは、「映像の世紀」とも呼ばれた20世紀の映像資料を、後世の人たちにって少しでも親しみやすいものにするために、コンピューター彩色技術を用いてニュース映画を中心とするモノクロのドキュメンタリー映像をカラー化する大プロジェクトが、1990年代半ばに立ち上げられたことだった。

全米各地のフィルムライブラリー、アーカイヴ、閉館となった映画館の倉庫に眠っていたドキュメンタリー画像がカラー化のためにかき集められた。その過程で、グリーンウッド大虐殺を報じたニュース映画画像が再発見されたわけだ。この発見が動画映像というかたちで行われたことは、非常に重要だ。動画映像の頒布、流通、交換はほとんどがユーチューブなどの動画映像に特化したSNSを通じて行われる。

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